ぼくの曽祖父 (ひいじいちゃん)
大学出てから金融機関に終身雇用だった父、八幡製鉄所勤務からの農家だった祖父と比べて、わりとキャリアも居住地もフラフラしがちな僕。
どうやらそのルーツは、曽祖父 (ひいじいちゃん) のDNAにあったのかもしれません。
父から聞いた我が祖先の話、いずれLINEの履歴とともに現世から消滅しても勿体無いので、備忘のために記載しておきます。
(ソースは父。ファクトチェックはしてない、できない、するつもりもない)
そもぞも坂本家の先祖は、関ヶ原の戦いのあと殿様と一緒に久留米藩 (福岡) に来た藩士。
数名の藩士が藩の許可を得て、原っぱだった土地を開拓してそこに居つき、農家になった。
その藩士の郷土が比叡山延暦寺の門前町の坂本だったので、坂本姓を名乗った。
元が侍なので、百姓ではあるが、苗字帯刀や、商売を兼業することが認められていた。
我が家の初代は1852年生まれのトヨノ婆さん。(ペリーが浦賀に来る前の年)
村の女のなかで独りだけ寺子屋に行ったほど頭が良かったので、親は他所に嫁に出すのが惜しくて、土地を分けて分家させた。
(その婆さんの孫のうち2人が東大に行っているらしい。僕が初じゃなかったのか…!)
ぼくのひい爺さんの代は紺屋 (染物屋) を兼業していた。
(その名残で父・俊夫は、今でもときどき「紺屋の俊しゃん」と屋号で呼ばれることがあるそうな)
養子で来たひい爺さんはそれが嫌で、紺屋をやめて、朝鮮に商売に出るようになった。
商売はあまり上手くいってなかったらしく、こっそり田畑を担保にして本家から借金していた。
返済が滞って本家から督促が来て、借金と担保のことがが判明し、大騒ぎになった。
このままでは養子に来た男のために財産を取られてしまうからと、親戚で協議して、ひい爺さんを『準禁治産者』にした。
仏壇の下に、原告がひい婆さん・被告がひい爺さん、原因は浪費、という八女簡易裁判所の判決文が残っているらしい。
ひい爺さんは朝鮮に商売に行くようになると、ほとんど家には帰らなくなり、数年ぶりに帰っても、翌日はすぐ何処かに遊びに行っていた。
なので爺ちゃん (ぼくの祖父) たちは、実質母子家庭で育ったことになる。
(とても温厚な爺ちゃんだったが、じぶんの父親のこととなるとボロクソに言っていたらしい。知らなかった)
戦時中、祖父が兵隊になって満州にいた時、ひい爺さんがいきなり面会に来て、「もう女とは別れた」と話して帰っていった。
…それが最後の親子の対面になった。
朝鮮に商売で行っていたひい爺さん。
日本が負けてソビエト連邦が攻めてきたため、朝鮮に渡っていた日本人は大混乱になり、彼はその混乱の中で行方不明になった。
満州国の官僚や軍人、その家族は、こっそり特別列車で先に逃げることができた。
朝鮮開拓団として渡った農民や、その他朝鮮で生活していた人たちは、残されて誰も助けてくれないので、徒歩で釜山まで逃げた。
その間、植民地支配で日本に対する恨みが溜まっていた現地の人に●された人も多数いた。
ひい爺さんもたぶんその時に●されたと思われる、らしい。
父が小学生の頃 (1960年代?) に政府から『失踪による死亡の認定通知』が来て、初めて正式に死んだことになった。
父いわく、政府の人が通知書を持ってきた時のことを覚えているとのこと。
厚生省だったか、行方不明になった経緯を調査した簡単な報告書が仏壇の下に残っているそうな。
葬式をしたが、遺体は無く、悲しんでいる人も無い、変わった葬式だったらしい。
そんな父からの僕へのメッセージ。
「(お前が) 勤め先を頻繁に変わったり、外国に行ったり、先祖がやっていたことだと考えれば、そう深刻に考える必要は無かろう。」